第12回「大学時代 ①」


 皆さん、こんにちは。「くのいち」ことクノテツヤです。

 さて、今回から、僕の音楽遍歴は舞台を大学時代に移します。
 暗黒の高校時代を送ってきた自分と訣別するために、大学進学を機に地元を離れ、誰も僕のことを知らないまっさらな場所を求めて、埼玉にやってきました。
 関東圏に出てきた僕の最大の楽しみは、何と言っても海外アーティストの来日公演です。地方では考えられないほど沢山のライヴが、日々どこかで行われている……そんな夢のような環境に、僕の頭はもうクラクラです。

 というわけで、今回は、大学時代に行ったコンサート等の話と併せて、思い出の曲をお送りしたいと思います。

―1曲目―

 まずは、僕が生まれて初めて観に行ったコンサートのオープニング・ナンバー、つまり、僕が生まれて初めて生で体験した記念すべき曲です。聴いてください。

 この曲は、ブラック・サバスを脱退したオジー・オズボーンが、ランディ・ローズという、天使のように美しく、才能に満ち溢れたギタリストと運命の出逢いを果たし、復活をかけて1980年に発表したソロ・デビュー・アルバム「ブリザード・オブ・オズ~血塗られた英雄伝説(原題:”Blizzard Of Ozz”)」の幕開けを飾った記念すべき曲です。オジー・オズボーンの代表曲であると同時に、HR/HMの歴史上に燦然と輝く名曲です。

 キッスが好きで意気投合した大学の友達K岡君と、「月に吠える」ツアーの日本公演初日、1984年6月28日の中野サンプラザ公演を観に行きました。
目の前に動くオジーがいる……それだけで、もう夢のようでした。
詳しくは、2024年7月2日付けのコラム「四方八方」~「嗚呼!中野サンプラザ」をご覧ください。

 ところで、雑誌等のライヴ・レポートに載っている写真では、とても大きく見えていた中野サンプラザのステージですが、実際にこの目で見たステージが、思っていたよりもかなり小ぢんまりしていたことに驚いたのを、今でも覚えています。

―2曲目―

 オジー・オズボーンのライヴですっかり味をしめた僕は、以降、色々なHR/HMバンドの来日公演を観に行きました。オジーの次に行ったのは、センセーショナルなデビューを果たしたこのバンドのライヴでした。聴いてください。

 この曲は、W.A.S.P.が1984年に発表したデビュー・アルバム「魔人伝(原題:”W.A.S.P.”)」のオープニング曲で、シングル・カットもされた彼らの代表曲です。
 僕はこの曲をラジオで初めて聴いたのですが、股間に丸ノコという過激なコスチューム、際どいステージ・パフォーマンス、危ないエピソードの数々から、もっと狂暴で荒々しい音を想像(期待?)していました。ところが、あまりにも真っ当な曲だったので、ちょっと拍子抜けしてしまいました。それでも、覚えやすくてキャッチーなこの曲は一発で気に入りました。その分、アルバムにはもっと破天荒で強烈なインパクトを期待していたのですが、さらに真っ当な曲の数々に、「このバンドって、実は真面目か……」と思ったのでした。

 僕が観に行ったのは、1984年10月22日の中野サンプラザ公演です。
詳しくは、2024年7月2日付のコラム「四方八方」~「嗚呼!中野サンプラザ」にも書いていますが、ステージ上で飛び散った血しぶきが服に付くほどの至近距離で体験したあの日のライヴ、あの光景は忘れることが出来ません。

―3曲目―

 LAメタル全盛の80年代中盤、断トツのルックスと人気を誇っていたバンドです。聴いてください。

 この曲は、アメリカのハード・ロック・バンド、ラットが1984年に発表したメジャー・デビュー・アルバム「情欲の炎(原題:”Out Of The Cellar”)」の、アナログではB面トップに収録されていた曲です。派手さはありませんが、アルバムの中では最もダークでクールなお気に入りの1曲です。
 ラットは、とにかくメンバー全員がカッコいい。セクシー系のスティーヴン・パーシー<ヴォーカル>、超美形のウォーレン・デ・マルティーニ<ギター>、巨大で少し強面のロビン・クロスビー<ギター>、ボビー・ブロッツァー<ドラム>は体型的に「キレンジャー」系の三枚目キャラクターっぽいけれど、十分カッコいい部類に入るし、個人的には、小柄ながらも超絶なカッコ良さのフォアン・クルーシェ<ベース>にベタ惚れでした。

 僕が観に行ったのは、1985年3月20日の新宿厚生年金会館公演。
土台となる元のルックスが違い過ぎて、似合うはずもないのに、彼らの真似をして、カットTシャツ、バンダナ、ブレスレット等でそれっぽく身を固め、その気になってライヴ会場に繰り出したのも、今となっては微笑ましい思い出です。
 見た目の話ばかりになってしまいましたが、もちろん、肝心の音楽の方も魅力的でした。特に気に入っているのは、メジャー・デビュー前に出した自主制作EP「ラット」。ここで聴くことのできる粗削りなカッコ良さは、いま聴いてもしびれます。

―4曲目―

 1980年に衝撃的なデビューを飾ったこのバンドですが、当時、地方の中学生だった僕には、来日公演に行くなんて夢のような話でした。僕がようやくこのバンドのライヴに行くことができたのは1985年、彼らの3度目の来日公演でした。聴いてください。

 この曲は、アイアン・メイデンが1984年に発表した5枚目のアルバム「パワースレイヴ」のオープニングを飾る必殺の名曲です。
 前作「頭脳改革(原題:”Piece Of Mind”)」には今ひとつのめり込めなかった僕ですが、この「パワースレイヴ」には夢中になりました。1984年に誕生した音楽雑誌「BURRN!」の創刊号に「パワースレイヴ」のディスクレビューが載っていて、高得点の評価だったこともありますが、何と言ってもジャケットのカッコ良さに、「これは間違いなし!」と確信したのです。そんな感じで手に入れた「パワースレイヴ」は、期待通り、圧倒的に素晴らしい内容でした。実のところ、ヴォーカルがブルース・ディッキンソンに代わってからのアイアン・メイデンになかなか馴染めずにいたのですが、「パワースレイヴ」がその壁をぶち破ってくれました。

 僕が観に行ったのは、1985年4月14日の中野サンプラザ公演。
こちらも、2024年7月2日付のコラム「四方八方」~「嗚呼!中野サンプラザ」にも書いていますが、この日、ウェディング・ドレス姿の新婦さんが会場に駆けつけて最前列に陣取るという、ある意味、夢のような場面に遭遇しました。いまだに、その時の様子が脳裏に焼き付いています。
 それにしても、いま思うと、この時点で日本公演の会場がまだホール・クラスだったことには驚いてしまいます。これでは、フルサイズのステージ・セットなど望むべくもないのに、それでも限りなくフルサイズに近いセットを持ち込んでくれたアイアン・メイデンの心意気には胸が熱くなります。
 念願の武道館公演は、それから2年後の1987年、「サムホエア・イン・タイム」のツアーで実現。
もちろん、観に行きました。

―5曲目―

 続いては、中学時代から大好きだったバンドです。ようやくライヴを体験することが出来て、感無量でした。聴いてください。

 この曲は、1974年に発表されたクイーン2作目のアルバム「クイーンⅡ」からお送りしました。
ちなみに、デビュー・アルバム「戦慄の王女(原題:”Queen”)」には、同曲のもっと短いインストゥルメンタル・ヴァージョンが収録されています。

 僕が観に行ったのは、1985年5月11日の国立代々木競技場 第一体育館(オリンピック・プール)でのライヴです。この時は、まさかこれがフレディ・マーキュリー存命中のクイーンにとって最後の来日公演になってしまうとは、思いもしませんでした。
 このライヴで一番印象に残ったのは、「輝ける7つの海」のイントロが聴こえてきた瞬間です。
大好きなこの曲を生で聴くことが出来るとは夢にも思っていなかったので、イントロのキラキラ輝くようなピアノのフレーズが聴こえてきた瞬間、あまりの嬉しさに僕は狂喜乱舞、天にも昇る心地でした。

 話は変わりますが、この国立代々木競技場とか、日本武道館のようなアリーナ・クラスの会場では、「1階席」とか「2階席」よりも「アリーナ席」の方が良い席だと、僕はずっと思い込んでいました。しかし、僕のように背の低い人間は、ほとんど段差のないアリーナ席だと、よっぽど前の方の座席でもない限り、まともにステージの様子を見ることは出来ないのです。もし背の高い人が前にいようものなら、もうどうにもなりません……最悪です。
 自分の認識が間違っていたことを、この国立代々木競技場でのクイーンのライヴで、つくづく思い知りました。この時の座席は、もちろん「アリーナ席」の後ろの方でした……。

―6曲目―

 1985年、ある伝説のバンドが奇跡の再結成を果たしました。そして、日本にもやってくることになったのです。聴いてください。

 この曲は、再結成を果たしたディープ・パープルが1985年に発表したアルバム「パーフェクト・ストレンジャーズ」のオープニングを飾る7分超えの大曲です。シングル・カットもされ、当時のディープ・パープルを象徴するような曲調で、成熟した大人のハード・ロックという感じですね。

 僕がディープ・パープルの存在を知ったときには、既にバンドは解散していて、伝説の存在となっていたので、まさか、この目でディープ・パープルを、しかも黄金の第二期メンバーの姿を拝むことが出来るなんて、夢にも思っていませんでした。
 そんなわけで、来日公演を見逃すわけにはいきません。
僕は、1985年5月16日の日本武道館公演を観に行きました。何だかんだ言っても、あの伝説の5人が目の前のステージで演奏しているという事実だけでも、とんでもないことでした。

 ところが、悲しいかな、その後程なくして、イアン・ギランもリッチー・ブラックモアもディープ・パープルをまたもや脱退してしまいます(のちにイアン・ギランは再復活を遂げますが……)。
案の定という気もしましたが、「性懲りもなく、また同じことを繰り返して……」と呆れてしまいました。 とはいえ、再結成後のディープ・パープルは、あれから40年経った現在まで解散もせず、メンバー・チェンジを重ねながらも、現役で活動を続けているのですから驚きです。
 それにしても、現在のラインアップは一体、第何期になるのでしょうか?

―7曲目―

 今でこそ大好きなバンドですが、初期のケバくてチープな感じのヴィジュアル・イメージが苦手で、しばらくは食わず嫌いで敬遠していました。聴いてください。

 この曲は、1982年に発表したメジャー・デビュー・アルバム「華麗なる激情(原題:”Too Fast For Love”)」のオープニングを飾る、耳をつんざくような荒々しいギター・リフが印象的な、スピード感あふれる、モトリー・クルーの代表曲です。
 最初の内はモトリー・クルーを敬遠していた僕ですが、3枚目のアルバム「シアター・オブ・ペイン」が、彼らを見直すキッカケになりました。それから、2枚目の「シャウト・アット・ザ・デヴィル」、デビュー・アルバムの「華麗なる激情」と遡っていったのですが、見た目だけで判断して、食わず嫌いでいたことを後悔しました。

 僕が観に行ったのは、「シアター・オブ・ペイン」ツアーにおける初来日時、1985年7月8日の中野サンプラザ公演でした。座席は1階4列1番と、かなり前の方ですが、ステージに向かって一番右端の席だったので、ステージ脇に積み上げられたスピーカー群に視界を遮られ、一番のお目当てだったトミー・リーの姿がまったく見えない、という悲劇的な状況でした。違う意味で忘れられません……。                                                                                                                        

―8曲目―

 楽しみにしていたバンドのライヴが「公演中止」になってしまったことがあります。結局、払い戻しもなかったような……。聴いてください。

 これは、ディオが1984年に発表した2作目のアルバム「ザ・ラスト・イン・ライン」のオープニングを飾る、ディオらしさ満載の名曲です。
 僕が観に行ったのは1986年9月3日の日本武道館公演。もともとは1986年1月に来日公演が予定されていたのですが、何と招聘元の音楽舎というプロモーターが倒産してしまい、公演中止になってしまったのです。そんなトラブルを乗り越えて、再び決まった待望の来日公演でした。
 当時の最新アルバム「セイクレッド・ハート」のジャケットに描かれている巨大なドラゴンがステージに登場、ロニーがレーザー光線を放つ剣で戦いを繰り広げる演出など、海外と同じフルサイズのステージ・セットを持ち込んで、文字通り劇的なライヴを繰り広げてくれました。

―9曲目―

 当時、伊藤政則さんがニッポン放送でやっていたラジオ番組「TOKYOベストヒット」で、あるバンドのミニ・ライヴを、放送局のスタジオでリスナーを招待して行う、という企画がありました。参加者は抽選で決定ということだったので、早速応募ハガキを出したところ、何と幸運なことに当選してしまいました。お陰で、目の前でこのバンドのライヴを観るという、貴重な体験をすることが出来ました。聴いてください。

 この曲は、1983年に発表したファーストEP「イエロー・アンド・ブラック・アタック」のオープニングを飾る曲です。当時持っていたアナログ盤は手放してしまいましたが、レコードのラストに収録されていたクリスマスの定番ソング「ウィンター・ワンダーランド」がとても気に入っていたので、再発CDに収録されていないのがとても残念です。
 このストライパーというアメリカのバンドは、クリスチャン・メタルと呼ばれていて、ステージ上から客席に聖書をばら撒くパフォーマンス(布教活動?)が話題になっていました。現在も現役活動中で、昨年9月に通算14作目となる最新アルバムを発表しています。

 ニッポン放送の「ラジオハウス銀河」で、ストライパーのミニ・ライヴが行われたのは1985年7月7日の日曜日。そう、七夕の日でした。キリスト教とは関係ありませんが、何かロマンチックな舞台設定がいいですね。
ちなみに、この企画ライヴのタイトルは、TOKYOベストヒットスペシャル「ストライパー メタル伝道ライブ “罪人にあわれみを”」(※冒頭の掲載写真をご覧ください)というものでした。すごいですね。
 目の前で繰り広げられるライヴ・パフォーマンスを堪能した後、最後にメンバーと握手して、ひと言ふた言ことばを交わす機会がありました。ちょうどニュー・アルバム制作中とのことだったので、僕は緊張しながら英語でこう話しかけてみました。

 ”I’m looking forward to your new album.” (新しいアルバムを楽しみにしています。)

 何とか伝わったようで、メンバーも喜んでくれていました(多分……)。
学校の授業以外で、海外の人と英語で会話するのは、ほぼ初めての経験だったので、この時のドキドキは今でも忘れられません。

―10曲目―

 ストライパーに続き、またもや「TOKYOベストヒット」が、あるバンドのミニ・ライヴを企画、僕もまたもや当てる気満々で応募しました。ところが、僕を待ち構えていたのは、何とも悲しくやるせない結末でした。聴いてください。

 この曲は、1984年に発表されたボン・ジョヴィのデビュー・アルバム「夜明けのランナウェイ(原題:”Bon Jovi”)」に収録されていて、シングル・カットもされています。
僕は、珍しくシングル盤を買ってしまうほど、この曲が大好きなのですが、やはりオリジナル曲ではないせいか、ベスト盤にも収録されず、あまり陽の目を見ることがないのが残念です。

 このボン・ジョヴィのスタジオ・ミニ・ライヴは、たしか2枚目のアルバム「7800°ファーレンハイト」のリリース時期に合わせての企画だったと思います。ボン・ジョヴィを間近で見ることが出来るというので、少しでも目立つように、応募ハガキにはリッチー・サンボラの似顔絵を描いて、意気込んで応募したのですが、待てど暮らせど、当選を知らせるハガキは届きません。そうこうしている内にライヴ当日がやってきて、僕は「そう何度もラッキーなことが続くわけないか……」と諦め、下宿でおとなしくしていたのでした。
 翌日のこと。下宿の共用部屋にある僕の郵便棚に、何やら1枚のハガキが入っていることに気が付きました。何かと思って見てみると、それは、あろうことか、ボン・ジョヴィのミニ・ライヴの招待状でした……。僕の頭の中は真っ白です。
 いつも僕宛ての郵便物は、僕の部屋の入口ドアの下に差し込んでくれていたので、すっかり油断して、普段は共用部屋の郵便棚をまともに確認していなかったのです。
 今でこそ、笑い話にできますが、この時のショックといったらありません。「どうしてこんな時だけ……」と恨めしく思いながらも、ちゃんと確認していなかった自分のバカさ加減に腹が立つやら、情けないやらで、悔やんでも悔やみきれず、本当に泣きたくなりました。いや、泣いていたと思います。

 最後に、我が家のボン・ジョヴィに関するふたつの謎をご紹介。

その1:この時の当選はがき(招待状)がどこにも見当たりません。あまりの悔やしさに、自暴自棄になって破り捨てた……なんてことはないはずですが。今度、あらためて探してみようと思います。

その2:今回、冒頭に掲載した写真の背景に見えているのは、ボン・ジョヴィの1985年来日公演時のパンフレットです。ところが、僕はその時のライヴには行っていないのです。僕の周りにも、行った人は見当たりません。どうして僕の手元にこれがあるのか……謎です。

* * *

-今回も最後までお付き合いいただき、どうもありがとうございました。
それでは、またお会いしましょう。See Ya!

ー第12回「大学時代 ①」プレイリストー

No.曲名
Song Title
アーティスト
Artist
1アイ・ドント・ノウ
I Don’t Know
オジー・オズボーン
Ozzy Osbourne
2悪魔の化身
I Wanna Be Somebody
W.A.S.P.
W.A.S.P.
3ラック・オブ・コミュニケーション
Lack Of Communication
ラット
Ratt
4撃墜王の孤独
Aces High
アイアン・メイデン
Iron Maiden
5輝ける7つの海
Seven Seas Of Rhye
クイーン
Queen
6ノッキング・アット・ユア・バック・ドア
Knocking At Your Back Door
ディープ・パープル
Deep Purple
7ライヴ・ワイヤー
Live Wire
モトリー・クルー
Motley Crue
8ウィ・ロック
We Rock
ディオ
Dio
9ラウド・アンド・クリアー
Loud ‘N’ Clear
ストライパー
Stryper
10シー・ドント・ノウ・ミー
She Don’t Know Me
ボン・ジョヴィ
Bon Jovi

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