Dear John


 今日、12月8日はジョン・レノンの命日。あれからもう44年も経ったのかと驚く。
 ラジオでジョン・レノンの訃報を聞いたとき、僕はまだ中学3年生。以前、「空想ラジオ (PLAYLIST)」の第2回でも書いたが、当時の僕は、ようやくビートルズを聴き始めたくらいの頃で、まだジョン・レノンという存在が自分の中でハッキリした形を成していない時期でもあり、これからという時にとても残念だと思いながらも、動揺することはなく、そのことを比較的冷静に受け止めていた。
それよりも、銃で撃たれて亡くなった、という衝撃的な事実に動揺を覚えていた。

 ところで、ジョン・レノンが我々に残してくれた「イマジン」という曲がある。
今でも世界中の色々なところで流れ、歌われている永遠の名曲であることは、今さら僕がここで言葉を費やす必要もないと思う。しかし僕は、そんな「イマジン」をある時期(つい最近……)まで、素直な気持ちで聴くことが出来なくなっていた。
それは、ある時から世の中の行き過ぎた熱狂が、あのジョン・レノンを、まるで「愛」と「平和」の伝道師のように神格化・絶対化して崇め奉ると同時に、あの「イマジン」を、まるで「愛」と「平和」の安っぽいイメージソングに貶めてしまったように思え、何か違うんじゃないか?と強い違和感を感じてしまったからだ。
別にジョン・レノンが悪いわけでも、「イマジン」に罪があるわけでもない。それは分かっている。でも、テレビから、ラジオから、そして街中でも、ありとあらゆるところで「イマジン」がまるでCMソングや耳に心地いいだけのBGMのように垂れ流されることを、どう受け止めればいいのか分からなくなってしまい、しまいには耳にすること自体にうんざりしてしまったのだ。

 そんな、素直になれない時期がかなり長く続いていたのだが、今年に入ってしばらく経ったある日、川崎大助さんの『教養としてのロック名曲ベスト100』という本の中に書かれていた「イマジン/ジョン・レノン」についての文章を読んだ途端、まるで憑き物が落ちたように、「イマジン」に対して抱いていたモヤモヤが一気に吹き飛び、目の前がすっきりと晴れ渡った。

 その文章は次のような趣旨であった(私なりに要旨をまとめてみた)。

-「イマジン」は覚悟の歌である。宗教も国境も財産もない、すなわち、外の世界に頼るものを何ひとつ持たない「真っ裸」の状態で、どんな不安や恐怖があろうとも現実と向き合え、と呼びかける、恐ろしいほど厳しい覚悟を求める歌である。これをロックと呼ばずして、一体何がロックであるか。

 この文章に接して、やっぱりジョン・レノンは変わることのない永遠のロックン・ローラーなんだとあらためて確信できた瞬間、僕がジョン・レノン、そして「イマジン」に対して勝手に思い込み、抱え込んでいた胸のつかえがスッと消え去り、この曲にまた真正面から向き合うことが出来るようになった。

 今年は、久しぶりに素直な気持ちで「イマジン」を聴くことが出来るのが、何よりも嬉しい。

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